人物ファイル

銀のスプーン工房ほそや 細谷隆さん

銀のスプーン工房ほそや
山梨県北杜市大泉町西井出8240-1576
TEL/FAX  0551-38-2906
Mail     chan4wr@mac.com
facebook.com/hosoyatakashi
1962年東京都荒川区生まれ
1987年銀製洋食器の製作へ
2009年 山梨県北杜市大泉町へ工房を移す
八ヶ岳アート&クラフトネットワークおらんうーたん会員

アメリカンフットボールを通じて広がった世界と父の交通事故~1つ目の偶然~

東京都荒川区の東京銀器職人の家に生まれた細谷さんは、中学、高校、大学とアメリカンフットボールに夢中になりながらも、将来は何か物を作る仕事をやろうと考えていた。

「就職を考えた時期に、親に後を継ぐことを伝えたんですよ。そうしたら、父親が『その前に少し、他の世界も見ておいで』と言われて・・・。それで、アメフト部のあるアパレルメーカーに就職したんです。当時はバブル間近の時代。私の部署はとても厳しく毎日夜遅くまで大変でした。でも、帰宅後のトレーニングは欠かさずやっていました。苦しくもあったけどとても充実した時間を過ごしていましたね・・・。」

そうやって、2,3年経った頃、父親が自ら運転するオートバイで転倒し、利き腕を怪我してしまう。

「医者からは、最悪利き腕が動かなくなるって言われて・・・。丁度、仕事が面白くなって来た時期だったので、色々と葛藤がありましたが、思い切って銀器職人の世界に飛び込みました。」

 

すべての工程を自分でやらなければ東京からは出られない ~2つ目の偶然~

東京銀器は東京都伝統工業41品目の1つに指定されている。細谷さんが作っている銀食器(スプーン・ナイフ・フォークなど)は戦後日本に来た外国人から修理の依頼などがあり発展していったという。
細谷さんの工房を訪れて、まず最初に驚くのが機械の大きさだ。作業工程によって機械が分かれているのだが、中くらいの大きさの機械でも30トンものパワーがある。どんなに小さなスプーンでもこの大きな機械がないと銀器は作れない。
作業工程はいくつも分かれているが、機械で全てできる訳ではなく手作業も多い。その中でも最終工程の『磨き』は専門の職人さんに依頼するのが通常である。つまり、磨きの職人さんが近くにいるところでないと銀器をつくることができないのである。

「いつかは東京から出たいと考えていました。そんな時、いつも磨きを依頼していた職人さんが体調を崩し、あまり仕事ができなくなってしまったんです。他の職人さんに頼むこともあったんですが仕上がりに不満も残りました。じゃあ、これを機会に自分で満足ができる磨きをやろうと思ったんです。必要に迫られてという事でもあったんですが、結果的に、磨きの技術を身につけたことで東京から出られる可能性が現実化していったんですね。」

 

1本の間違い電話 大泉への移住 ~3つ目の偶然~

「親の後を継いで15,6年経ち、磨きの技術が身についたころ、移住のチャンスが巡って来ました。そう言えば、知り合いに定年退職してどこか田舎へ移住した人がいたなあ。今度、電話して詳しく話を聞いてみたいなって考えていたんです。そうしたら、その人から電話が来たのでびっくりしました。」
友人「細谷さんは、今日、上に行きます?」
細谷さん「・・・??(『上』って何処??)」
友人「あっ、間違えちゃった(>_<)」

その人の移住した先の知り合いにも細谷さんという名前の人がいて、単純に間違えたようであった。
間違い電話も何かの縁と思い、移住のことに関してその知り合いにいろいろ聞いてみた。

友人「私の移住した山梨県の大泉というところは物作りをやっている人がたくさんいるから一度見においでよ。」

「それがきっかけで、家族4人で大泉という場所を初めて訪れました。自然に囲まれた大泉に銀細工の工房をつくるということに私自身は心がときめいたんですが、家族の意見もあり、結局移住計画は一旦白紙に戻りました。
その年の年末年始、妻が息子たちを連れて実家のある和歌山に帰省したんですが、小さい頃からアトピー性皮膚炎に悩まされていた息子たちは、どういう訳か田舎にいくとアトピーが治まるんですよ。でも、1週間して東京に戻ってくるとまたアトピーが発症するんです。
それで、家族でもう一度移住についてもう一度話合いました。結果として、息子たちのことを考えると田舎への移住もいいのかもしれないということになり、再び、移住先を探しに山梨のいろんな場所を検討しました。大泉以外にも白州や武川などもいろいろと見て回ったんですが、暑さが苦手なことから標高1,000m以上の場所が良い、いつまでも車に乗れるとは思わないので駅やバス停が近くにある場所が良い、銀細工を作る為の機械は大きな振動を発生するので近くに家がない場所が良いなどの条件に合った場所として大泉に移住先を決めました。上の息子が高校入学、下の息子が中学入学の時であったことも丁度良かったかもしれませんね。」

 

もらい事故から生まれたつながり ~4つ目の偶然~

大泉に移住してもしばらくの間は、専門の銀食器だけを作っていた。東京にいる時と変わらず、取引先の問屋やテーブルウェアショップから依頼があり、それを納める日が続いた。レストランやホテルなどではなくほとんど個人で使うことが多い銀食器であるが、職人とエンドユーザーとの距離が遠いなと感じることもあった。
そんなある日、車を走らせていると前を走っている車が停まり、急にバックしてきた。そして、衝突。幸い双方怪我もなく、車の破損も大きくはなかった。相手方と事故処理のことを話をしているうちになぜか意気投合し、とあるカフェへ食事に行くことになった。そこでジャンベ(アフリカの打楽器)と出会った。

「ジャンベサークルに入り、とあるチャリティーイベントに参加した時に、せっかくなのでイベントに来た人に何か手作り体験をしてもらってその収益を寄付しようと考えたんです。ただ、銀ではあまりに材料費がかかるので非現実的なんです。でも真ちゅうなら銀の20分の1の材料費でできるということに気付きまして。そうして、真ちゅうでスプーンという手作り体験が始まりました。今では八ヶ岳マルシェやおらんうーたん主催のクラフトフェア、オープンアトリエなどに参加して、来てくださった方々に手作り体験をしてもらっています。この手作り体験を通してお客さんとの距離がすごく縮まったので、真ちゅうを取り入れたことはとても良かったことの1つだなと感じています。
それから、大泉にはたくさんのクラフト作家が住んでいます。陶器や木工、ガラスなどといった他の素材と銀器のコラボレーションもやっているんですが、それが自分自身の創作活動においてとても刺激になっていますね。」

偶然が重なって今がある。今から思えば全て必然のことだったのかもしれない。これからも、自然に囲まれた最高の環境の中でたくさんの人達と交流を続けて行けたらこんなに幸せなことはないだろう。

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