人物ファイル

異業種交流から見えてくる地域の未来 北田耕一郎さん

異業種交流から見えてくる地域の未来 北田耕一郎さん

福岡県北九州市生まれ
諏訪郡原村上里17781-22
(有)コウ・キタダ建築設計工房 代表取締役
長野県中小企業家同友会諏訪支部支部長
異業種交流委員会副委員長
TEL 0266-75-3419
Mail ko@ko-kitada.co.jp
http://www1.sphere.ne.jp/country/

鉄平石の隠された力

諏訪の霧ヶ峰で産出される鉄平石をご存じだろうか。鉄平石とは輝石安山岩の板状節理がよく発達したもので、2~3cm内外の厚さに剥離(はくり)された鉄平石は、建築用の内装外装用石材として広く利用されてきた。産出の最盛期は戦後から1960年代頃で、徐々に利用される機会が減って行き、今では建築材としての用途はほとんどなくなってきている。
「建築士として仕事をしていると、住居の寒さ対策の相談をよく受けます。それで、数年前から寒い信州に自然石を使った蓄熱床暖房を導入できないかなと色々、全国の事例を調べていたんです。自然石が蓄熱することは昔からよく知られていますが、一つ問題があります。それは、どんな石でも水分を含んでいてそれを乾かすのに費用と時間がかかるということなんですよ。それを解消するものはないかなと考えていた時、知り合いから鉄平石の事を教えてもらいました。仕事柄、建材としての鉄平石のことは知っていました。何より驚きだったのは諏訪地方の特産品だったということ。鉄平石のことを調べていくと、温泉の床材や壁材として利用されていることもあって蓄熱保温効果があるということが分かりました。このことを科学的にも証明したいと考え信州大学の先端研究施設共用促進事業を活用して協力をしてもらいました。結果、鉄平石には驚くほどの蓄熱保温効果と遠赤外線効果があることが分かったんです。
 床下暖房として利用するのですが、簡単に説明すると、床下に棒状の電熱ヒーターを20㎝間隔に並べ、周囲に鉄平石の砕石を流し込んで厚さ20㎝ほどに敷き詰めます。そして、唯一の余剰エネルギーと言われる深夜電力を使って25~35度まで温めて熱源とします。施工費用は標準的な床下暖房と変わりませんが、同じ熱量を得る場合、ランニングコストが石油ストーブの5分の1程度でおさまります。昔から『頭寒足熱』と言われるように足元を温めると寒い信州の冬場も快適に過ごせるんです。」

九州男児、信州原村で起つ

福岡県北九州市で育った北田さんは高校生のころまで剣道や柔道に打ち込んでいた。高校のOBには俳優の高倉健さんや名将仰木彬さんらが名を連ねる。
「大学進学で東京へ行きました。大学では経営学を学び、スポーツは高校生までの反動かテニスをやってまして。冬場は草津のスキー場近くのホテルでアルバイトをしてましたね。福岡出身でスキーの経験がなかったんですが、毎日スキーをやり続けた結果、随分うまくなりましたよ。そんなこともあっていつかはスキー場が近くにあるところで暮らしたいなと思っていました。」
 就職を考えていた頃、女神湖でロッジを経営する傍らログハウスを建てている知り合いから手伝ってくれないかという誘いがあった。田舎で育ってきたからなのか東京で暮らすのは自分に向いていないと思っていたのでその誘いに飛びついた。23,4歳の頃で体力とやる気に満ち溢れていた。近くにスキー場もあり、楽しい日々を送っていた。いつかは自分もこの仕事で独立したいと考えていたが、このまま進んで行っても素人のまま中途半端に終わってしまうんじゃないかという思いがよぎった。
 「それで、一旦東京に戻って再就職をしたんです。ロイヤルホストを展開するロイヤル株式会社に縁あって入りました。25歳の時です。その時には30歳で信州に戻り独立すると決心していましたから、気合を入れて働きましたよ。結果、上司に認められて26歳で東京本店の店長になりまして、マネジメントや社員教育など多くのことを勉強させてもらいました。」
 28歳の時、結婚をした。妻となる人は世田谷生まれ世田谷育ちだった。
「もちろん、最初に『俺は30歳で信州に戻って独立するけどいいか?』って聞きましたよ(笑)カミさんの答えは『私、東京みたいに人が多いところで暮らすのが嫌だからいいわよ』でした。」
 公言通り、北田さんは30歳で信州に戻った。当初、自分の得意分野での独立を考えたが、縁もゆかりもないところでいきなりレストランや宿泊業をやりますと言ってもなかなか信用してもらえまい。まわりを見てもお店の名前がコロコロ変わる。それでもバブル景気の影響か新しいお店や保養所、別荘なども増えている。
「この状況なら裏方にまわった方がいいかなと思って、建物のメンテナンスをする会社を起ち上げました。目標通り30歳で独立を果たしたんですが、仕事に取組むうちに器用な素人ではなく、建物の専門家になりたくなりました。」
 その当時、大工棟梁の離れを借りて暮らしていた。一緒に仕事をして建物のことについて学ぶ日々。新たな目標として建築士の資格を取るということが思い浮かんだ。
「茅野市中大塩にある高等職業訓練校建築科に週1回、3年間通いました。基本的には将来大工になりたい人が通う学校ですから、ノミの研ぎ方など大工のいろはを学ぶところでしたので試験対策としてはあまり役にたたなかったかもしれませんが、講師の方はみんな建築のプロですから、わからない所を質問するとみなさん丁寧に教えてくれましたよ。結果的に32歳の時、独学ながら在学中に建築士の試験に合格できました。

個性を生かして輝けるように

「私は長野県中小企業同友会や長野県異業種交流委員会などに入っているのですが、地域の中で埋もれている素晴らしい資源に再び違った視点からスポットを当てたり、異業種の物を結び付けたりしながら地域の活性化につなげていければと考えています。」
景気がよくなってきたと言われる割にはあまり実感が湧かない地方都市。今、目の前にある仕事をコツコツとこなしていく毎日。何も変わらないのではなく、何も変えようとはしないだけなのかもしれない。一歩を踏み出す勇気があれば新しい何かが生まれるのではないか。そんなことを教えて頂いた気がする。
「私が住む原村上里地域は小さな子供がいる若い世代が増えてきた気がします。移住者であったり、Uターンであったりしますが、その地域で暮らす大人達が今を生き生きと暮らし、楽しい場所にできれば、またその子たちがこの場所に戻ってきてくれると思います。田舎暮らしの魅力は、個性が発揮できるチャンスがあるということ。信州に移住して30年近くになりました。もしかしたら、個性が輝くもの、それは人と人であったり、物と物であったりしますが、それらを引き合わせて新しい魅力を生み出すお手伝いをすることが私の使命なのかもしれませんね。」

  • セルフビルドの自宅兼事務所

  • 古民家の床下

  • 床下に鉄平石の砕石を敷き詰める

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